【私はあなたであった。あなたは私になるだろう】
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
なんということであろうか。
再来春に全線開業する九州新幹線の愛称がいつの間にか【さくら】になっておるではないか(挨拶
さくらという愛称自体は悪くない。JR●日本のたにがわとかなすのとかMaxなんちゃらとかに比べれば、遙かに重みがあり、また伝統に彩られ、特急の愛称に相応しいと思う。が、
この場面なら、常識的に考えると【つばめ】だろう、諸君。
さくらの愛称の歴史は昭和4(1929)年まで遡る。当時の国鉄は世界恐慌の煽りをモロに受け、減収の一途を辿っており、増収施策の一環として、特急列車に愛称を憑けることにしたのである。それまで、優等列車には愛称が無く、そのまんま、特急列車とか、急行列車と呼んでおった。
当時、日本では特急列車は2往復しか走っておらんかった。共に東京-下関を結び(関門トンネルはまだ無い)、下関からプサンへ船で乗り継ぎ、プサンからソウル、さらに北京、ロシア、欧州へと国際列車が連絡しており、彼の特急列車どもは、日本で最も栄えある地位を戴いておった。そのうちの1往復が公募の結果、さくらと命名されたのである。
がだ、諸君。もう1往復は富士と命名され、富士こそ最優等列車であった。何故なら、富士は1等車、2等車のみを連ねておったのに対し、さくらは3等車が中心で、どっちかといえば大衆向けだった。とはいえ、それでも唯二の特急列車には違いなく、国民から愛されておった。
翌、昭和5(1930)年、東京-大阪につばめが運行を始める。それまで、富士とさくらが東京-大阪を11時間くらいかけて走っておったところ、一気に3時間ほど短縮し、8時間20分で走破した。しかも1等車、2等車も連ねて、さくらより格上の特急列車として扱われておったのは勿論である。
因みに昭和17(1942)年、関門トンネルが開通すると、さくらは東京-長崎を結ぶようになる。
その後、太平洋戦争の影響で特急列車は廃止されるが、戦後間もなく、昭和25(1950)年に東京-大阪の特急としてつばめが復活する。翌年、つばめが好評なのを受けて、さくらも東京-大阪の特急として復活する。但し、3等車中心の編成で、それも臨時列車の扱いで。
つばめより格下なのは明らかだった。
さらにその後、昭和33(1958)年、一旦さくらは廃止されてしまう。さくらが復活するのは、翌昭和34(1959)年である。このとき、東京-長崎で設定され、戦前のさくらは此処に完全復活を遂げる。
ところが利用客の減少で、平成17(2005)年に廃止され、現在に至っておる。
一方つばめのほうは、昭和39(1964)年に東海道新幹線が開業すると、新大阪-博多の特急列車になる。さらに名古屋-熊本まで運行区間が延長され、国鉄的にも名門列車を大事に扱っておったようであるが、昭和47(1972)年、新幹線が岡山まで開業すると、岡山-博多・熊本・西鹿児島の列車になり、一挙にローカル色満載になった。さらに昭和50(1975)年、新幹線の博多開業で、走るべき路線が無くなり、廃止された。
現在九州で大きな顔をしておるつばめは、平成4(1992)年にJR九州が復活させたものである。
というわけで諸君、此処まで長々と綴っての通り、これまでの経緯を考慮すれば、常識的に考えて新大阪-鹿児島中央を結ぶべきは【つばめ】なのである。
故に、腐敗も列車名の公募の際、自信満々でつばめと記したし、どう考えてもつばめ以外有り得ぬと確信し、そして、いつかつばめ返しの如く、東京まで帰り咲く日を夢想すらしておった。
なのに、【さくら】。
さくらの復活そのものは喜ばしい限りだが、よりによってこの大事な場面で出てくるとは。さくらは咲いたものの、腐敗的にはサクラチル(電報っぽく)なのである。
今宵は痛飲決定であるな、諸君。
再来春に全線開業する九州新幹線の愛称がいつの間にか【さくら】になっておるではないか(挨拶
さくらという愛称自体は悪くない。JR●日本のたにがわとかなすのとかMaxなんちゃらとかに比べれば、遙かに重みがあり、また伝統に彩られ、特急の愛称に相応しいと思う。が、
この場面なら、常識的に考えると【つばめ】だろう、諸君。
さくらの愛称の歴史は昭和4(1929)年まで遡る。当時の国鉄は世界恐慌の煽りをモロに受け、減収の一途を辿っており、増収施策の一環として、特急列車に愛称を憑けることにしたのである。それまで、優等列車には愛称が無く、そのまんま、特急列車とか、急行列車と呼んでおった。
当時、日本では特急列車は2往復しか走っておらんかった。共に東京-下関を結び(関門トンネルはまだ無い)、下関からプサンへ船で乗り継ぎ、プサンからソウル、さらに北京、ロシア、欧州へと国際列車が連絡しており、彼の特急列車どもは、日本で最も栄えある地位を戴いておった。そのうちの1往復が公募の結果、さくらと命名されたのである。
がだ、諸君。もう1往復は富士と命名され、富士こそ最優等列車であった。何故なら、富士は1等車、2等車のみを連ねておったのに対し、さくらは3等車が中心で、どっちかといえば大衆向けだった。とはいえ、それでも唯二の特急列車には違いなく、国民から愛されておった。
翌、昭和5(1930)年、東京-大阪につばめが運行を始める。それまで、富士とさくらが東京-大阪を11時間くらいかけて走っておったところ、一気に3時間ほど短縮し、8時間20分で走破した。しかも1等車、2等車も連ねて、さくらより格上の特急列車として扱われておったのは勿論である。
因みに昭和17(1942)年、関門トンネルが開通すると、さくらは東京-長崎を結ぶようになる。
その後、太平洋戦争の影響で特急列車は廃止されるが、戦後間もなく、昭和25(1950)年に東京-大阪の特急としてつばめが復活する。翌年、つばめが好評なのを受けて、さくらも東京-大阪の特急として復活する。但し、3等車中心の編成で、それも臨時列車の扱いで。
つばめより格下なのは明らかだった。
さらにその後、昭和33(1958)年、一旦さくらは廃止されてしまう。さくらが復活するのは、翌昭和34(1959)年である。このとき、東京-長崎で設定され、戦前のさくらは此処に完全復活を遂げる。
ところが利用客の減少で、平成17(2005)年に廃止され、現在に至っておる。
一方つばめのほうは、昭和39(1964)年に東海道新幹線が開業すると、新大阪-博多の特急列車になる。さらに名古屋-熊本まで運行区間が延長され、国鉄的にも名門列車を大事に扱っておったようであるが、昭和47(1972)年、新幹線が岡山まで開業すると、岡山-博多・熊本・西鹿児島の列車になり、一挙にローカル色満載になった。さらに昭和50(1975)年、新幹線の博多開業で、走るべき路線が無くなり、廃止された。
現在九州で大きな顔をしておるつばめは、平成4(1992)年にJR九州が復活させたものである。
というわけで諸君、此処まで長々と綴っての通り、これまでの経緯を考慮すれば、常識的に考えて新大阪-鹿児島中央を結ぶべきは【つばめ】なのである。
故に、腐敗も列車名の公募の際、自信満々でつばめと記したし、どう考えてもつばめ以外有り得ぬと確信し、そして、いつかつばめ返しの如く、東京まで帰り咲く日を夢想すらしておった。
なのに、【さくら】。
さくらの復活そのものは喜ばしい限りだが、よりによってこの大事な場面で出てくるとは。さくらは咲いたものの、腐敗的にはサクラチル(電報っぽく)なのである。
今宵は痛飲決定であるな、諸君。
PR
この記事にコメントする