【私はあなたであった。あなたは私になるだろう】
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この3、4、5日に旅をした、0泊3日(0泊2日と記しておったが3日だった。よく考えりゃ)の記録を纏めてみた(挨拶
20時10分発の夜行バスにて、高松を出発。親しい人とメールを愉しみつつ、腰痛に苦しみつつ、床に就く。東京駅に降り立ったのは、7時過ぎだった。彼の博物館の開館は9時半だったので、軽く飯を喰らって、秋葉原に足を運んだ。ところがだよ、諸君。

8時くらいじゃ何処も開店しちゃいねぇ
何処も11時くらいの開店らしい。ついでに記しておくと、閉店も20時くらいらしい。これは昼前に起床して、夜はネットに没頭するオタクのライフスタイルに準じておるせいであろうか。
本当にコンビニとネットカフェ以外、やっておらなんだので、涼むのを兼ねて、ネットカフェに飛び込んだ。取り立ててネットで、何をヤルわけでもなかったのだが仕方がない。それから9時半を過ぎたので、両国に向かった。

目的地
両国のどの辺かと思いきや、国技館の隣だった。何も恐れる必要なぞなかった。早速、博物館に突入。するとだよ、諸君。

何故か長蛇の列
お前たち、学校は?会社は?布教活動は?(クリスチャンらしきを指して)
兎に角、予想外の行列だった。何故斯様な行列が出来るのか、未だ以て謎である。とはいえ、他人のことはどうでも良い。チケットを買って、中に入って逝った。暫く進んで出迎えてくれたのが、このチビではなく、

原寸大の展望車の最後尾である
展望車とは、このようなオープンデッキを備えた車両で、特急つばめ号とかの最後尾に連結されておった1等車を指す。当時は、3等級制であり、現在の普通車が3等車、グリーン車が2等車に該当する。つまり1等車は、グリーン車より格上の車両だった。政治家とか大企業の社長とか芸能人とかしか、乗ることが出来なんだ。資力の問題もあるが、当時は階級社会の名残もあった故、庶民は乗らないという暗黙の了解があった。因みに定員は15人くらい。グリーン車でも50人近くの定員であったから、如何にゆったりしておったか、想像に難くない。
尚、緑色に塗られておるのは、国鉄の冗談などではなく、東海道線の電化を記念して、斯様に塗色された。こんな派手な色でも、最早蒸気機関車の煤煙で煤けることはない。とPRしたいがための措置と聞いておる。

展望車が現役だった頃
斯様な緑色の長大編成だったため、いつからから青大将のニックネームを頂戴した。詳しくはググれ。

2等車の座席
厳密には特別2等車というが、不親切が旨なので割愛。リクライニングシートで、現在のグリーン車とスペック的にそう変わらない。

3等寝台車
現在のB寝台に該当する。とはいえ、ベッドの幅は52センチしかなく、しかも、見ての通り3段ベッドである。お客はこのベッドの幅と高さの中で、着替えなどをしておった。旅情を感じるが、あんまり乗りたいとは思わない。

特急こだま号
折角東海道を電化したんだから、すっげぇ特急走らせましょうや。ってコンセプトで生まれたのが、この特急こだま号(模型)である。当時の電車は頗る残念で、振動が激しく、モーターも五月蠅く、快適さを売りにする特急なぞに宛がうことは無理とされておったが、国鉄も色々と頑張って開発したらしい。この電車で培った技術を用いて、新幹線も誕生したとされる。
さて、この電車の圧倒的性能の前に、特急つばめ号もこの電車に代わることになった。とはいえ、特急こだま号には展望車に該当する車両がなかった。そこで、展望車の代わりに開発されたのがパーラー・カーと呼ばれる代物である。上の写真が正にパーラー・カーである。オープンデッキが無い代わりに、巨大な側窓をはめ込み、眺望の良さを確保したらしい。階級社会と大衆社会の狭間の時代に生まれた車両だった。その時代の流れ通り、新幹線が出来た後、この車両は普通車に改造された。
嗚呼、写真の下にこっそり写っておるのも、青大将である。
色々と見学を済ませ、腹が減ってきたので、博物館を後にした。昼飯を喰らって、仕事でも役立ちそうなブツを求め、再び秋葉原に降り立った。結局買い物はしなかった。とはいえ、情報収集には役立った。
夜になって、たけのこの里の彼女らと、ささやかなオフ会を催した。とはいえ、あんまり時間が無かったから、ササッと酒を呑んで、飯を喰らった。お陰様で濃い時間を過ごせました。と、割と好評だったようである。腐敗は生憎、寝不足だった故、全力で相手が出来なんだが、まあ良い。
宴会後、東京駅へ。22時発の瀬戸号で帰る。本来は往復とも夜行バスのつもりだったが、腰痛に負けた。

B寝台廊下
デッキから車内に進むとこんな感じ。2階建てである。

扉を開けるとこんな感じ
腐敗の部屋は2階であった。

上の写真から上手にカメラを振る
部屋の様子は以上である。狭い。ちょっとした独居房である。それでもプライベートは完全に確保されておる。先ほどの博物館で撮影したB寝台と比べてもらうと、どっちが良いか一目瞭然。

B寝台眺望
2階だと、このようなパノラミックな眺望を楽しめる。とはいえ、ブラインドを開けっぱだと、こっちは丸見えである。東京から暫くは通勤電車とかち合い、向こうのお客と目が合うので、気を憑けるべきである。着替えなぞ以ての他だ。

B寝台窓
天井から撮影。窓全体はこんな感じ。

シャワーカード
瀬戸号にはシャワー室がある。300円で6分間、湯が出る。腐敗は前日から風呂に入っておらんかった故、東京駅を出てから直ぐ、車掌を捕まえて、このカードを買った。そのままシャワー室へ逝った。誰も使った形跡がない。どうやら一番風呂のようだ。すっかり嬉しくなった腐敗は素っ裸になって、シャワーの栓を捻った。ところがだよ、諸君。
水しか出ねぇ。
それでも、まぁ暫くすれば出るだろうと頑張ったものの、最後の1秒に至るまで、湯はまったく出なかった。車掌を呼んで、文句のひとつでも言いたかった。しかし、文句を言う気力がなかったのと、これはこれでネタが出来たと思い、文句は脳裏にしまい込んだのである。

翌朝、到着
こうして、0泊3日の旅は幕を閉じた。最後に、
腹が痛くなったり、風邪を引いたりせず、真面目に会社に逝ったことを諸君に報告しておきたい。
20時10分発の夜行バスにて、高松を出発。親しい人とメールを愉しみつつ、腰痛に苦しみつつ、床に就く。東京駅に降り立ったのは、7時過ぎだった。彼の博物館の開館は9時半だったので、軽く飯を喰らって、秋葉原に足を運んだ。ところがだよ、諸君。
8時くらいじゃ何処も開店しちゃいねぇ
何処も11時くらいの開店らしい。ついでに記しておくと、閉店も20時くらいらしい。これは昼前に起床して、夜はネットに没頭するオタクのライフスタイルに準じておるせいであろうか。
本当にコンビニとネットカフェ以外、やっておらなんだので、涼むのを兼ねて、ネットカフェに飛び込んだ。取り立ててネットで、何をヤルわけでもなかったのだが仕方がない。それから9時半を過ぎたので、両国に向かった。
目的地
両国のどの辺かと思いきや、国技館の隣だった。何も恐れる必要なぞなかった。早速、博物館に突入。するとだよ、諸君。
何故か長蛇の列
お前たち、学校は?会社は?布教活動は?(クリスチャンらしきを指して)
兎に角、予想外の行列だった。何故斯様な行列が出来るのか、未だ以て謎である。とはいえ、他人のことはどうでも良い。チケットを買って、中に入って逝った。暫く進んで出迎えてくれたのが、このチビではなく、
原寸大の展望車の最後尾である
展望車とは、このようなオープンデッキを備えた車両で、特急つばめ号とかの最後尾に連結されておった1等車を指す。当時は、3等級制であり、現在の普通車が3等車、グリーン車が2等車に該当する。つまり1等車は、グリーン車より格上の車両だった。政治家とか大企業の社長とか芸能人とかしか、乗ることが出来なんだ。資力の問題もあるが、当時は階級社会の名残もあった故、庶民は乗らないという暗黙の了解があった。因みに定員は15人くらい。グリーン車でも50人近くの定員であったから、如何にゆったりしておったか、想像に難くない。
尚、緑色に塗られておるのは、国鉄の冗談などではなく、東海道線の電化を記念して、斯様に塗色された。こんな派手な色でも、最早蒸気機関車の煤煙で煤けることはない。とPRしたいがための措置と聞いておる。
展望車が現役だった頃
斯様な緑色の長大編成だったため、いつからから青大将のニックネームを頂戴した。詳しくはググれ。
2等車の座席
厳密には特別2等車というが、不親切が旨なので割愛。リクライニングシートで、現在のグリーン車とスペック的にそう変わらない。
3等寝台車
現在のB寝台に該当する。とはいえ、ベッドの幅は52センチしかなく、しかも、見ての通り3段ベッドである。お客はこのベッドの幅と高さの中で、着替えなどをしておった。旅情を感じるが、あんまり乗りたいとは思わない。
特急こだま号
折角東海道を電化したんだから、すっげぇ特急走らせましょうや。ってコンセプトで生まれたのが、この特急こだま号(模型)である。当時の電車は頗る残念で、振動が激しく、モーターも五月蠅く、快適さを売りにする特急なぞに宛がうことは無理とされておったが、国鉄も色々と頑張って開発したらしい。この電車で培った技術を用いて、新幹線も誕生したとされる。
さて、この電車の圧倒的性能の前に、特急つばめ号もこの電車に代わることになった。とはいえ、特急こだま号には展望車に該当する車両がなかった。そこで、展望車の代わりに開発されたのがパーラー・カーと呼ばれる代物である。上の写真が正にパーラー・カーである。オープンデッキが無い代わりに、巨大な側窓をはめ込み、眺望の良さを確保したらしい。階級社会と大衆社会の狭間の時代に生まれた車両だった。その時代の流れ通り、新幹線が出来た後、この車両は普通車に改造された。
嗚呼、写真の下にこっそり写っておるのも、青大将である。
色々と見学を済ませ、腹が減ってきたので、博物館を後にした。昼飯を喰らって、仕事でも役立ちそうなブツを求め、再び秋葉原に降り立った。結局買い物はしなかった。とはいえ、情報収集には役立った。
夜になって、たけのこの里の彼女らと、ささやかなオフ会を催した。とはいえ、あんまり時間が無かったから、ササッと酒を呑んで、飯を喰らった。お陰様で濃い時間を過ごせました。と、割と好評だったようである。腐敗は生憎、寝不足だった故、全力で相手が出来なんだが、まあ良い。
宴会後、東京駅へ。22時発の瀬戸号で帰る。本来は往復とも夜行バスのつもりだったが、腰痛に負けた。
B寝台廊下
デッキから車内に進むとこんな感じ。2階建てである。
扉を開けるとこんな感じ
腐敗の部屋は2階であった。
上の写真から上手にカメラを振る
部屋の様子は以上である。狭い。ちょっとした独居房である。それでもプライベートは完全に確保されておる。先ほどの博物館で撮影したB寝台と比べてもらうと、どっちが良いか一目瞭然。
B寝台眺望
2階だと、このようなパノラミックな眺望を楽しめる。とはいえ、ブラインドを開けっぱだと、こっちは丸見えである。東京から暫くは通勤電車とかち合い、向こうのお客と目が合うので、気を憑けるべきである。着替えなぞ以ての他だ。
B寝台窓
天井から撮影。窓全体はこんな感じ。
シャワーカード
瀬戸号にはシャワー室がある。300円で6分間、湯が出る。腐敗は前日から風呂に入っておらんかった故、東京駅を出てから直ぐ、車掌を捕まえて、このカードを買った。そのままシャワー室へ逝った。誰も使った形跡がない。どうやら一番風呂のようだ。すっかり嬉しくなった腐敗は素っ裸になって、シャワーの栓を捻った。ところがだよ、諸君。
水しか出ねぇ。
それでも、まぁ暫くすれば出るだろうと頑張ったものの、最後の1秒に至るまで、湯はまったく出なかった。車掌を呼んで、文句のひとつでも言いたかった。しかし、文句を言う気力がなかったのと、これはこれでネタが出来たと思い、文句は脳裏にしまい込んだのである。
翌朝、到着
こうして、0泊3日の旅は幕を閉じた。最後に、
腹が痛くなったり、風邪を引いたりせず、真面目に会社に逝ったことを諸君に報告しておきたい。
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» Re:お疲れ様でした。
お疲れ狭間の戦い(やや難しい挨拶
>水シャワーのメールには吹きしました。
そうですか、吹きましたか。敢えて黒丸さんに実況メールをした甲斐があるというモノです・腐敗
ええ、体張ったネタです。まるで若手の芸人です。
10月に再上陸するので、また遊んでやってください。
>水シャワーのメールには吹きしました。
そうですか、吹きましたか。敢えて黒丸さんに実況メールをした甲斐があるというモノです・腐敗
ええ、体張ったネタです。まるで若手の芸人です。
10月に再上陸するので、また遊んでやってください。